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     <忘れられた植民地ビルマ・カレン族>   →next
イギリスの植民地統治と日本の戦争統治。
ビルマの長い戦後は人々の深いため息の中でまだ終わりを見ない。
元凶は英国の植民地政策


 「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」…。ビルマ(ミャンマー)にとってそれらの映画で描かれた戦争世界はその後に続く過激な民族同士の闘争の序章にしか過ぎなかった。 
 同国は国内に135ともいわれる少数民族を抱えており、その多くがビルマの中心民族であるビルマ族(人口の約7割)と対立、衝突を重ねてきた。それは植民地時代に英国が少数民族を優遇したことに端を発している。

 英国はビルマ統治のため、カレン族を中心とした少数山岳民族を軍人、警察官に多数登用した。それに対し、国民の7割を占めるビルマ族の反感が高まり、独立義勇軍が結成されるにいたる

凶弾に倒れた独立の父・アウンサン将軍と不完全な独立

 義勇軍はビルマ進出を狙う日本軍の援助もあって、英国植民地軍の排撃に成功するが、日本軍の占領によって、体のいい先兵でしかなかった事を後に思い知らされる。
 日本の降伏によってビルマには英国の民生が復活するが、義勇軍を母体にビルマ国軍を創設したアウン・サン(アウン・サン・スーチー女史の父)は独立運動を展開。少数民族側とも協議をし、民族州によって構成される連邦共和国構想を提唱する。
 しかし、独立を目前にした1947年、アウン・サンは凶弾に倒れてしまい、1948年、ビルマは不完全なまま連邦共和国として独立を果たすのである。ここで不完全と言うのは、少数民族が住む州には自治権が与えられなかったことをさす。

独立はカレン人にとって弾圧の始まりだった

 1948年末、連邦政府軍によるカレン人虐殺事件が起こると、人口200-600万のカレン人は武装蜂起、以後、各地で少数民族の武装闘争がくりひろげれれるようになっていった。

 カレン人は一時、自州に臨時政府を樹立し独立を宣言するが、1950年代初め政府軍によって戦闘は沈静化する。しかし、国内には仏教徒と非仏教徒の確執や、シャン族、カチン族など新たな分離・独立をめぐる動きが活発化、政情は不安定なままであった。


この子達の未来の為に…。(2004年カレン州コクリック村)

度重なるクーデターと軍事政権

 ビルマ国軍を率いる総司令官ネ・ウィンは、1962年、軍事クーデターによって全権を掌握。翌1963年には「ビルマ社会主義計画党(BSPP)」を結成し、以降、1988年まで独裁体制をしくのである。
 1980年代後半になると、BSPPによる社会主義計画経済は行き詰まりを見せ、国民の間に経済不安が広がり始めた。この経済不安が民主化運動の契機となり、学生を中心とした反政府活動は流血を伴いながらもネ・ウィン退陣、BSPP政権の譲歩を引き出すに至る。が、ここでもまた軍事クーデターが勃発。国防相ソウ・マウンは「国家法秩序回復評議会(SLORC)」を設置し、再び軍事政権を誕生させる。

民主化弾圧と軍事政権の正当化

 国名をビルマからミャンマーに、首都ラングーンをヤンゴンに改めたSLORCは、1990年総選挙をにらみ、今度は政治弾圧を開始。国内最大の民主化運動組織「国民民主連盟(NLD)」の多くの幹部を逮捕し、書記長アウン・サン・スー・チー女史を自宅軟禁した。

最後の総選挙が行なわれた1990年。そのとき、「少数民族」を含むビルマの人びとは、軍政にノーを突きつけた。民主化を約束したNLD(国民民主連盟)党が485議席中、392議席という圧倒的多数を獲得したが、軍政は、「ビルマにはビルマのやり方がある、多民族のため軍の力が必要だ」として、いまだに政権委譲を拒み、アウン・サン・スー・チー女史を自宅軟禁も継続する。

 首相キンニュンは2003年8月、軍政の延命を図るため、民主化へ向けて形だけの「ロードマップ」を発表した。しかし、ビルマ国民の意見は全く反映されていない。

  軍事政権は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟にも成功し、その正当性を認める姿勢が国際世論に生まれつつある。

   ほとんどのビルマの人々は敬虔な仏教徒


      ビルマの朝は早い。市場にて。


           村での典型的な生活

終わらない戦後カレン人

        
1963年の軍事政権の誕生以降、少数民族組織は政府側の軍備増強に対抗するため、「民族民主戦線(NDF)」を結成し共同戦線を組んだ。「カレン民族連合(KNU)」 「カチン独立機構(KIO)」 「新モン国党(NMSP)」 「シャン州進歩党(SSPP)」 「ワ民族連合(WNO)」などでNDFは非ビルマ系の組織をほぼ網羅するに至った。
 しかし、
1994年末、KNU(カレン民族連合)の拠点マナプロウ陥落により、少数民族組織の殆どは軍事政権との停戦合意を進めざるをえない状況に追い込まれる。
 その後、KNU(カレン民族連合)のみがタイ国境沿いのミャンマー東部に拠点を確保し、
2000年7月に政府軍と大規模な武力衝突するなど頑強な抵抗を続けた。
 ただ、長引く独立闘争と弾圧の中でカレン州(カレン族居住地)は荒廃し独立派は弱体化し、
2004年初頭、KNU(カレン民族連合)は政府側と紳士協定(口頭による停戦合意)を結ぶ。 
 

2004年カレン州で初めてNGO活動が許可される

 長きに渡る少数民族弾圧のなかで、軍事政権はNGO(非政府組織)を含め、外国人のカレン人居住地での活動を頑なに拒否してきた。軍事政権は厳しい情報統制の中でカレン人弾圧の現況が国際社会に露呈するのを嫌った。

 2004年、1月22日最後の反政府勢力・KNU(カレン民族連合)が口頭ながら停戦合意を結んだことで、軍事政権は2004年9月1つのNGO団体の3人の外国人にカレン州での居住と活動を許した。

 まさに第二次世界大戦後、1948年の独立以来カレン州に外国人の居住が許可されたのは初めてのことである。



のどかな景色ながら、ここはKNU(カレン民族連合)支配地域。(カレン州カドタ村周辺2004年11月)

 2004年10月、国境なき医師団の1人の医師と1人の看護婦、1人の臨床検査技師は歴史の証人として社会的弱者・少数民族の現状調査、隣国タイへ流出した数万人におよぶカレン人難民の帰還の是非及び帰還後のサポート体性の確立、そして今尚彼らの最大の死因であるマラリアに対するプロジェクトを開始した。


カレン州チウタン村での移動診療所(2004年10月)

事実上のクーデター
2004年10月
しかし、2004年10月、またもや事実上のクーデターが勃発。少数民族との協調を模索し、KNUとの停戦合意を果たした、キンニュン首相が強硬派によって拘束され、失脚する。
 新たに誕生した新政権が少数民族との協調路線を継続するかどうかは予断を許さない状況となっている。

2004年11月
 カレン州にてカレン人側と政府側の小規模な小競り合いがおこり、数箇所で数人規模の死者が発生する。新政府は国境なき医師団に対し12月のカレン州に於る、全ての活動の停止を命じた。

2004年11月25日
新政権は前政権下に不当に逮捕されていた
政治犯を含め約10,000人を釈放した。

2004年11月29日
ミャンマーの最大野党国民民主党連盟(NLD)によると、自宅軟禁状態にある同党書記長
アウンサンスーチーさんが訪れた警官から自宅軟禁の延長を告げられた。警察はスーチーさんが適用を受けている法律では最長で2005年9月までの自宅軟禁になると説明した。

2004年12月11日
新政権は前政権下に不当に逮捕されていた政治犯を含む
約5000人の追加釈放を決定、即時実施された。

2004年12月20日
新政権は国境なき医師団に対してカレン州での活動の再開を許可し、即日医療活動が再開された。


            河は生活の源

    カレン人の女性はは年をとってもたくましい