<東大紛争・東大闘争>
1968年
1月29日、研修医制廃止に伴う登録医師制度に反対する東大医学部学生自治会による無期限ストが起きる。スト中の学生と青年医師連合は医学部当局との団体交渉を要求したが、学生らが医局長を軟禁するという偶発事件が起きると、当局は、学生17人を処分した。
これに対し学生たちは処分撤回を求めて、
3月12日 医学部総合中央館を、
3月27日 安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。
6月15日 医学部学生が安田講堂を再度占拠し、大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、
7月2日、安田講堂は学生によりバリケード封鎖された。
以後、大学当局は打開を図ったが更に学生の反発を招き、東大全学部の学生ストライキ、主要な建物多数の封鎖が行われた。
9月30日 日本大学の大学紛争を受け、佐藤内閣が動きだす。以後、学園闘争は政治問題と変化する。
11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。
11月22日、全学バリケード封鎖にむけて全共闘系7千名、阻止する民青系7千名が、全国から集まりにらみあう。全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対の説得を各派に恫喝的に説得する。結果的に全学バリケード封鎖は中止
1969年 大河内総長の後任として法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任。
1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。
日共系(民青)や学園平常化を求めるノンポリ学生と交渉によりスト収拾を行うことに成功したが、
依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断。
1月16日 警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。
1月18日 午前7時 警視庁警備部は8個機動隊を動員し、医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分警備本部は撤退する。
1月19日 午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで抵抗した学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。
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